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Une dame deprimee

葉桜が茂る季節、憂鬱な淑女が一人。
無意識にしてしまったため息は、これで何回目だろう。
ぼんやりとそんなことを考えた。





「ふぅ、レポートの採点なんてなくなってしまえばいいんですわ!」
「まぁ、彼らも頑張って書いたわけですし」
「あら。
 あの数百あるレポートの何割が、それに匹敵するのかしら?」
馴染みの喫茶店に逃げてきた淑女は、カウンター席の向かいに立つ店主に不満を零した。
この喫茶店は先月できたばかりで、職場から近い上にメニューがなかなかおいしい。
落ち着いた雰囲気やゆっくり流れる時間が気に入り、彼女はここへよく足を運ぶようになった。
目の前の店主は不満をぶつけられたにもかかわらず、柔らかい微笑を崩さない。
「それを見つけるのが、貴女の今の仕事でしょう?」
優しく諭すように言われた一言に、淑女の表情は少し険しくなった。
確かに淑女の本来の仕事は別にあるのだが、これを終わらせなければその仕事もできなくなってしまう。
それが分かっているからこそ、彼女は腑に落ちないのだ。
「……それはそうですけど、もうヘッポコ君達の書く、あの体裁がめちゃくちゃな文章は見飽きましたわ」
目の前にあるコーヒーに口をつけてから、本日何度目かのため息をつく。
それを見ていた店主が困ったように笑った。
「そんなにため息ばかりついていては、幸せが逃げますよ?」
そう言った彼は、その後コックに呼ばれて厨房に向かった。




淑女は大学教授であり、古文学の世界では名の知れた大物である。
彼女はここ何日も、学術誌に載せる論文の締め切りや、今度出版する予定の書籍の原稿に追われていた。
それに加えて、あの大量のレポートである。
内容が素晴らしければ得をしたとも思うが、相手は学生だ。
多くは単位欲しさに急ごしらえされたものであり、それは毎日多くの書物を読む彼女からしてみれば見るに耐えないものであった。
「これ以上幸せが逃げたらどうなるのかしらね」
誰もいないカウンターで一人ごちる。
今の彼女には、これ以上に苦痛な時間はないように思えた。



それから程なくして、店主がトレンチの上に料理を乗せて戻ってきた。
今、この店には淑女以外の客はいない。
自分が先程頼んだ料理はすでになくなっていて、それから更に注文した記憶もない。
では、この料理は一体何なのだろう。
「すいません、お待たせしてしまって。
 こちらはサービス、だそうです」
「…サービス?」
目の前に出された皿の上には、マカロンが3つ並べられていた。
色とりどりのそれは、見ているだけでも元気付けられるようだ。
しかし、サービスとは一体どういうことだろう。
店主の口ぶりからするとコックのサービスなのだろうが、その当人と話したことはこれまで一度もないのだ。
不思議がる淑女に気付いたのか、店主は秘め事を告げるときのように少し顔を近づけ、ひっそりと話し始める。
「あそこ、いつもできた料理が出てくるスペースがあるでしょう?」
彼が指さした先には、厨房とフロアを隔てる壁の中にポツリと開いたスペースがあった。
窓のようでいて、そうでないそれ。
あそこが一体なんだというのだろう。
「あれは彼がつけて欲しいと言ったので開けた穴なんですけど、どうしてそんなことを頼んだのか分かります?」
「………さぁ、分かりませんわ」
そう答えると、目の前の店主はふわりと笑った。
淑女には、この店主が普段浮かべている笑みはどこか作り物のように見えていた。
それは様々な食事処に出入りする機会が多い淑女だから気付けたことであるが、他の客にはいつも愛想のいい店主に見えているのだろう。
実際、店主に惚れ込んで店に通っている人も少なくないと聞いたことがある。


しかし、その人物は今、目の前で本当に笑っているのだ。


いつも笑んでいるのに今更笑ったことに驚くなんて、と淑女は心の中で呟いた。
そんな淑女を知ってか知らずか、彼は説明を続ける。
「『自分の料理を食べた人の顔が見たい』から、だそうです。
 あの厨房の中にいて、彼はフロアのお客様のことも良く見ているんです。
 ここによく来る貴女の様子がおかしいことにも気がついたんでしょうね」
カウンター席からそのスペースを見ることは、意識しない限りありえないだろう。
初めてその場所を意識して見ると、茶色いコック帽を被った銀髪の後姿がチラリと見えた。
「本当はこういう贔屓はしないんですが………?」
いきなり饒舌になった店主がおかしくて、淑女はついにクスクスと笑い始めてしまった。
今度は彼が不思議そうに彼女を見たが、間の抜けた顔をしたのはほんの一瞬だけであった。
またあの作り物染みた笑みを浮かべて、「どうしたんですか?」と尋ねる。
ひとしきり笑った淑女は、店主を見て言った。
「まるで恋人の惚気話でも聞かされているようでしたわ」
「おや、私はそのつもりでしたが」
静かな店内で、その言葉が厨房に伝わるのは容易だったのだろう。
ガシャン、と何かが落ちる音がした。
「あら、それは本当でして?」
いたずらっぽく尋ねると、店主はまた綺麗に微笑んだ。

「もちろん、冗談ですよ」




「さて、そろそろヘッポコ君達のレポートを読みに帰りませんとね」
出されたマカロンを食べ終わった淑女は、その皿の近くに一枚の紙幣を置いた。
「少々お待ちください、今お釣りを…」
「あら、お釣りなら結構でしてよ?」
店主は驚いて淑女を見た。
店に来たときの険しい表情はどこへやら、彼女は微笑んで告げる。
「おいしいサービスと、いい話を聞かせてもらったお礼ですわ。
 お釣りは厨房の彼にでも差し上げてくださいな」
淑女の様子が変わったことは見るも明らかで。
そのことを悟った店主もにこやかに言った。
「…ええ、そうさせてもらいます」





淑女が店を出ると、日はやや傾きかけていた。
「さて、私も負けていられませんわね」
晴れやかな顔で呟き、職場への道を辿る。

憂鬱な淑女は、もうそこにはいなかった。

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