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「いーぬかーいくーん」
眉間に深く皺を寄せて、あからさまに嫌そうな顔をして出てきた彼を無視して、手に持った包みを一振り。
「お弁当、食べるの付き合ってください」
ガチャリと鈍い音のするノブを回せば、見慣れた景色が目に飛び込んできました。
今日が天気のいい日で本当に良かったなぁ、とボクはどこかで見ているかもしれない神様に心の中で感謝しました。
そして、いつもは一人で食べてるお昼でしたが、今日は彼と話しながら食べるのもいいかなぁ、なんて。
そう思って初めて彼を呼んでみたというのに。
「弁当くらい一人で食ってろ」
出てきて早々この言い方はないでしょう。
「いつもは一人で食べてるんすよ」
「じゃあ尚更だな。とりあえず用がそれだけなら帰る」
「それだけじゃないっすよ」
呆れた、という風に踵を返した彼でしたが、最後の一言には驚いたようでピタリと動きを止めてこちらを見つめてきました。
そう、それだけじゃないんです。
そもそも、ボクはお昼を食べる友達がいないから、ここで一人寂しくお弁当を食べていたわけじゃないんです。
一緒に食べようと誘われたこともあったけど、それでもここに一人で通い続けたのは。
「十二支高校って原則屋上は立ち入り禁止で、全棟しっかり鍵がかかってるんすよ。
でも、ここだけは鍵がぼろくて入れること、あなたは知ってるっすよね?」
彼は何も言い返してきませんでした。
半分ハッタリを入れた賭けでしたが、昨日からの一連の出来事を通して何となくそうじゃないかと思ったんです。
ボクは入学してから少しして、この場所を誰かに教えてもらいました。
そしてずっと、ここで誰かが来るのを待っていたんです。
思い出せない誰か、なんてボクは一人しか知らない。
「ボクはずっと、ここであなたを待ってたんです」
さて、先ほどは推察だけでも何とかなりましたが、そもそもボクは彼の名前と彼が野球部のピッチャーだったこと以外、何も思い出せていませんでした。
だから、本当のところ、彼がここに初めて連れてきてくれたときのことまで思い出せたわけじゃありません。
目の前の彼がどんな人だったのかすら思い出すことができていないのです。
けれども、いままでの記憶で噛み合わなかった部分は「たぶん、犬飼くん」でぼんやりつながるようになっていました。
その犬飼くんはというと、相変わらず眉間に皺を寄せたままボクと目を合わそうとせず、それでもボクの隣に座っていました。
そんなに嫌なら離れていればいいのにとも思ったのですが、あまりに自然にそこに腰掛けたものだから、きっとボクらの距離感はこのくらい近かったのだろうと何となく納得して。
そのくらい親しい仲だったはずの彼を忘れていた自分が、無性に腹立たしく思えました。
…どんなに苦しくても絶対に思い出してやる、と心の中で誓って、冷めて少し硬くなったご飯を一口頬張りました。
「そう言えば、天使って普段何してるんすか?」
「…とりあえず、そんなこと聞いてどーすんだ」
「いや、こうやって色々見えるようにはなったけども、あなたに会うまで架空の存在かと思ってたっすから」
半分本当で、半分は口実。
彼が極力話したがらないのは、きっと昨日のように何が僕の琴線に触れて記憶を引き出してしまうか分からないからだろうと思いました。
ならこうやってボクの記憶からかけ離れたことでも聞けば、きっと彼と少しくらいは話せるに違いないと考えて、こうしてどうでもいい話を振ってみたのです。
本当なら、きっとここでお昼を食べながらお互い野球の話ばかりしていたんだろうなぁ、とか思ったりもしたけれども。
「……とりあえず、会社で仕事してるとでも思っとけ」
「何すかそれ」
「こうやってスーツ着てんだろ」
盛大に溜息をつきながら、彼はだらしなく着ているシャツを少し引っ張ってみせました。
よく考えれば、昨日の天使も姿こそボクでしたが着ていたものはスーツでした。
彼らの仕事着のようなものなのでしょうか。
「これ、喪服らしいぜ」
つまりそういうことだ、と勝手に話を終わらせて、彼は再び黙り込みました。
何がそういうことなのかはよく分かりませんでしたが、あまり言いたくないのかなぁ、と思って、それ以上聞くことはしませんでした。
それから何も話題が思いつかず、少し張り詰めた空気の中、ボクは黙々と弁当の中身を消費していました。
犬飼くんもその場を離れる様子はなく、ぼんやりとどこかを見つめていました。
ボクらの沈黙を埋めているのは騒がしくなり始めたグラウンドの音だけで。
ボールを蹴りあう雑音や声に紛れて、キーン、と馴染みのある金属音が響きました。
「…今年、どこまで行ったんだ?」
ぽつりと、彼が呟きました。
まさか向こうから話してくれるなんて思っていなかったから本当に嬉しかったのですが、唐突過ぎて何の話なのか良く分かりませんでした。
それに気がついたのか、ぼそりと「野球だよ」と付け加えてそっぽを向くしぐさは、体格のいい彼を子どもっぽく見せていて。
それまで厳しい顔しか見せなかった彼とは結びつかない姿に、ボクは少しだけ驚きましたが、それを表に出さずに答えました。
「今年は決勝まで行けたんすけど、残念ながら予選落ちしちゃったっす」
「…そうか」
「ごめんなさい、ボクじゃまだ華武高を抑え切れないんすよ」
今年こそみんなで甲子園に行きたかったなぁ、きっと犬飼くんが投げていたらあの打線も抑えられただろうなぁ。
そんなことを思ったのだけれども、口には出さず心の中で呟くだけにしました。
弁当も粗方食べ終わってしまい、さてどうしようかと箸を置いたところ、くいっと右手首を掴まれて引っ張られました。
地面に箸が落ちるところでしたが、それをすんでのところで止め、何が起きたのかと引かれた手首を見ると、彼が右手をまじまじと見つめていました。
ボクの右手は練習のせいで酷く荒れているから見ても仕方がないのに、と思いましたが、引っ込める気にもなれずそのままにしていました。
「とりあえず、無茶はやらかしてないみてーだな」
「今年はどっちかって言うと下半身の強化と体力づくりのほうに重点を置いてたんすよ。
アンダースローやサイドスローは下半身への負荷が大きいんで、ばてるのも結構早くって。
あ、でもちゃんと投げ込みもしてたっすよ?」
「ふーん…」
ボクの右手から目を逸らさずに曖昧な返事をする犬飼くんを見て、ああこの人はボクを心配してくれているのか、とようやく思い至ったわけで。
そうだ、ボクはいつも彼に心配されていたんだ。
どんなにぶっきらぼうなセリフでも、確実に、彼の優しさが伝わってきて。
傷だらけになった手を、彼の両手が包み込んで、それで。
「 」
「………ッ!?」
からぁん、と何かが転がっていく音がしましたが、再び襲ってきた眩暈と頭痛にまた意識が朦朧としてきて、何が転がっていったのかは分かりませんでした。
しかし、そのぼやけていく意識の向こうに知りたいことがあると、今度ははっきり理解することができたのです。
なら、こんな痛みに負けていられない。負けられない、のに。
意識の中を探ろうとすればするほど頭痛は酷くなり、息をするのも困難になっていきました。
きっと犬飼くんのだろうと思う声も、遠くで響いているだけで、何を言っているのかまで良く聞こえませんでした。
だんだんと遠のく意識の中、苦しくて、もがくように宙を切ろうとした手を、握りとめたのは。
気がつくと、日が少し傾いていて、ちょうど何かを告げるチャイムが校内に響いていました。
ボクは転落防止のフェンスに背を預けて気を失っていたらしく、ずっと寝苦しい体勢でいたせいか体のあちこちが痛みました。
少し落ち着いてきたので、今回は何を思い出しただろうと自分の記憶を辿ってみて、また肝心なことを思い出せていない自分に少し落胆して。
それでも、犬飼くんがどんな人だったかを思い出せたことに少し安心していました。
こんなペースでは賭けに負けてしまうなぁ、と少し思ってから、そういえば彼はどこにいるだろうと辺りを見回してみました。
「ようやく起きたか」
頭上から声がしたので見上げると、彼はフェンスの上に立ってボクを見下ろしていました。
危ない、と言いかけましたが、そういえば彼の背には立派な羽があることを思い出して、慌ててその言葉を飲み込みました。
「今何限っすか?」
「何言ってんだ。もうSHRだ」
「てことは、午後サボっちゃったんすね…」
はぁ、と溜息をついてから、少しふらつく身体に無理を言わせて立ち上がりました。
犬飼くんもフェンスから降りてボクの隣に立ちましたが、どうも様子がおかしいのです。
苦々しい表情をして立つその姿は、何かを後悔しているようで、何かを疎んでいるようにも見えました。
「どーせ、大したことなんて思い出せなかっただろ」
その口調は確信を持って、ボクを責めていました。
何でそんなことが分かるのだろうと思いましたが、彼との思い出をいまだに取り戻せていないボクには分かるはずもありませんでした。
きっとボクと彼の間には、どうしようもなく大切なものがあって。
それはどんなに取り繕っても、全部覚えている彼には分かってしまうものだから。
それが分からないうちは、本当の意味で彼を思い出していないのだと、ボクはそのとき気付いてしまったのです。
「気を失うほど苦しんで、そんなちまちましたもの集めて何になる?
とりあえず、そんなペースじゃ残りの日数だけで全部思い出せるなんて思えねえ」
ギロリとボクを睨みつけて、諦めろと遠まわしに訴える言葉。
確かに、それは先ほどボクもチラリと思ったことでした。
チグハグに構成された記憶は、犬飼くんの存在でぼんやり説明できるようになったけれども、まだよく分からないところはたくさんありました。
例えば、ボクがこの力を犬飼くんからもらったときのこと。
ここに焦点を置いて記憶を取り戻すのが一番いいんでしょうが、その時期の記憶が一番曖昧なことにも気がついていました。
だから、どんなに遠回りでもいいから、まず彼のことを思い出そうとしているのです。
それに、彼のことをまた少し思い出した今だから分かる、その言葉の本当の意味。
「犬飼くんがそうやって突き放す言い方をするときは、大抵は照れ隠しか心配してくれてるときなんすよね」
ボクの言葉に、彼は切れ長の目を大きく見開きました。
「大丈夫っすよ、時間がある限りボクは諦めないっす」
「…勝手にしろ」
そっぽを向いて呆れたようにそう言ったあと、彼はまたあの大きな翼で飛び立とうとしました。
そのとき、ボクはあることを思い出して、慌てて彼を止めました。
「ああ、そうだ。犬飼くんって飲み食いできるんすか?」
「とりあえず、それ聞いてどうすんだ」
「雪印が新しいコーヒー牛乳出してたから、良かったら一緒に飲んでみたくって」
あれほどボクを避けようとしている彼が、一瞬ピクリと反応したのがとてもおかしくて。
ボクは堪らず、吹き出して笑ってしまったのです。
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