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犬飼くんのことで思い出せたこと。
同じ野球部の同じポジション、だけど投げる球はボクと正反対の剛速球。同い年でDクラス。ぶっきらぼうだけど冷たいってわけじゃない。
コーヒー牛乳と食パンが好きで、犬を飼ってて、辰羅川くんと仲が良くて、猿野くんと仲が悪い。
ボクと犬飼くんの関係。
同じ野球部の同じポジション、だけどお昼を2人で並んで食べる程度に仲はいい。
でも付き合いは多分短くて、記憶の不整合が起こっている去年の4月ごろが初対面。
初めのうちは親友だったのかとも思ったけれども、ポジション争いしているライバルと数ヶ月で親友になれるとは、彼の性格上いくらなんでも思えなくて。
それに、初めて記憶を取り戻したときに無意識に彼の頭を撫でたことや、記憶を取り戻す瞬間見える不思議な光景は、ボクらには別の繋がりがあることを暗示しているような気さえしました。
親友にはなれない彼とそれだけの繋がりを持てたのは、どうしてなのでしょう。
「子津くん?」
名前を呼ばれてハッと顔を上げると、辰羅川くんが心配そうにボクの顔を覗き込んでいました。
犬飼くんがいない今、彼はボクとバッテリーを組んでいました。
今は2人で投球練習をしている最中だったのですが、聡い彼はボクの意識がそこに向いてないこと気がついたのでしょう。
「どうしました?
昨日も部活を休まれてましたし、ご気分でも優れないのですか?」
「え、あ、そ、そんなことないっすよ!」
慌てて答えたものの、目の前の彼は疑いの眼差しを向けていました。
ボクが自分のことに関して大丈夫だと言ったときほど信用ならないことを、彼は分かっているからです。
しかし、何を言ってもボクが笑ってごまかすのがお決まりになっているせいか、最近は深々と溜息をつくだけになっていました。
「…疲れたのでしたら休憩にしましょう。あまり無理をされては困ります」
「はいっす。ごめんなさい」
確かに、昨日は記憶を取り戻した影響で体調は優れませんでしたが、今日は別にそんなわけでもないのです。
休憩するにはいささか早いような気がして、何だか申し訳なくなりましたが、ここでまだ投げようとすれば確実に止められてしまうのは明白でした。
それなら素直に休もうと思い、2人でベンチに腰掛けて少し話をしましたが、やはり無意識にボクの忘れている記憶へと思考が移ってしまうのです。
そんなどこか上の空なボクを見て、辰羅川くんは困った顔をしていました。
はぁ、と大きく溜息をつきながら眼鏡を直し、「どうしたんですか?」と諭すような口調で彼はボクに尋ねました。
「何か気がかりなことがあるのでしたら、相談に乗りますよ?」
とは言われても、ボクの今抱えてる悩みというのは、あまりにも非日常すぎて誰にも話せたもんじゃありません。
かと言って、嘘をつくのが苦手なボクでは、彼をごまかす一言が思いつかないのも事実でした。
うーん、と少し悩む素振りをして、必死に何かいい切り返しはないものかと探って。
ふと、あることを思い出したのです。
「…辰羅川くんは、なんで野球を始めたんすか?」
別に、この疑問は意味もなく口をついたのではありません。
彼と犬飼くんは高校に入る前からバッテリーを組んでいたはず。
同じ高校に進学した、ということは、野球を始めたきっかけにお互いが関わっていてもおかしくないと思ったわけで。
それに、彼のほうがボクより犬飼くんとの付き合いは長いのだから、ボク以上に記憶に不整合が起こっているはず。
運がよければ何か思い出すきっかけになるかもしれないと踏んで、こうして思い切って聞いてみたのです。
目の前の辰羅川くんは目を見開いて驚いていましたが、それも少しの間だけで、次第に不可解だといわんばかりの表情へ変わっていきました。
「…そんなことで悩んでおられたのですか?」
「や、だって、何か気になっちゃって…」
理由になってない言い訳だなぁと思いましたが、彼は納得したようで、いつものように顎に手を添えて思索していました。
もしかして、頭の良い彼なら自分の記憶の不備に気がついたんじゃ、と一瞬期待をしましたが、彼は何事もなかったように向き直ってこう答えたのです。
「ある人の投げる球に魅せられたのですよ」
辰羅川くんの話を要約すると、子どものころに出会った十二支高校野球部のピッチャーに憧れて、野球を始めたのだとか。
いつかは彼の投げる球を完成させられる投手と出会って、子どものころは無理だったあの球を受け止めてみたいのだ、と照れ笑いしながら教えてくれたのです。
「でも、結局出会うことは叶いませんでした。子津くんは球威で押すタイプの投手ではありませんし」
「……ごめんなさい」
「あなたが謝ることじゃありませんよ、私の運が悪いだけなのですから。さぁ、練習を再開しましょうか」
違うんです、辰羅川くんはもうその人に出会ってるじゃないですか。
なんで、なんで、思い出せないんですか。不思議に思わないんですか。
だって、ボクなんかよりずっと、ずっと、犬飼くんと一緒にいたんじゃなかったんですか…!
ごちゃごちゃと余計に乱れる感情を抑えきれず、ボクは彼に断りを入れてから水飲み場へと足早に向かいました。
ぼろぼろ溢れてくる涙をごまかすように勢いよく顔に水をかけたのに、滴る水が少なくなってもそれは止まる気配すら見せませんでした。
犬飼くんの居場所を奪ってる自分がこんなに憎らしいなんて。
居場所どころか誰かの夢まで奪ってたなんて、絆まで奪っていたなんて。
そして。
自分が奪った絆に少しだけ嫉妬した、なんて。
「最低だ、ボク………」
また勢いよく水を被って、早く涙が止まるように願うことしか、ボクにはできませんでした。
結局、その日はろくに練習しないうちに、辰羅川くんから早退するよう勧められました。
ボク自身、メンタル的にこれ以上練習ができる状態じゃないことは分かっていたので、言われるがままに帰り支度を始めました。
着替えをし終わって、鞄を持ち上げようとしたとき、ふと引っかかることを思い出したのです。
さっきのボクは確かに、彼らの絆に嫉妬しました。
でもボクが覚えている限りでは、彼らに嫉妬したことなんて今まで一度もなかったのです。
ボクらはより短い期間で、彼らとは違う深い絆を作り上げているのですから。
親友とはまた別の、深く繋がった特別な関係、なんて。
「まさか」
小さな声だったけど、誰もいない部室には無駄に大きくはっきりした声のように聞こえました。
一足先に肩に提げたバットケースがずり落ちそうになるのを慌てて止めて、もう一度考えを巡らせてみたけれども、否定する要素もそれ以外の答えも見つからないのです。
あまりに非常識で吹っ飛んだ回答に、ボクは力なく笑うことしかできませんでした。
そして真相を確かめるためにも、ボクはもう一度、あの丘へと向かうことにしたのです。
いくら早退したと言っても、辺りは徐々に薄暗くなりかけていました。
さすがに暗くなってしまってはまずいと思ったのか、それとも事の真相を早く確かめたかったのか、ボクの足は次第に速度を上げていきました。
ようやくその丘にたどり着いたときには、沈みかけていた夕日はどこにも見えなくなっていて、遠くでは金星が爛々と輝いていました。
彼が寄りかかっていたあの柵に身を乗り出しそうな勢いで近づいて、乱れた息を整えながら、誰もいない空に向かって叫びました。
「犬飼くん!」
息をぜいぜい整えながら振り返ると、犬飼くんがどこからか降り立ってきたところでした。
いつものように面倒くさそうな雰囲気を装いながら、怪訝そうに眉を寄せる彼。
「教えて、ほしいっす」
それだけ言って、ああでも彼はきっと教えてくれないだろうなぁ、とぼんやり思いました。
いまだに信じられないその答えが、本当かどうか。
「ボクたちは、恋人だったんすか?」
一瞬、何が起こったのかよく分かりませんでした。
犬飼くんが強く舌打ちをして、胸ぐらを掴まれて、顎を持ち上げられたと思ったら、そのまま………そのまま?
「!?
んぅ……っふ………!」
キスされたとようやく思い至ったときには、彼の舌が荒々しくボクの舌を絡め取っているところで。
あまりに乱暴なやり方に苦しくなって、怖くなって、きつく閉じた目から涙が出てきました。
しかし、突然それが止んだかと思うと、パッと掴まれていた部分を放されたのです。
力の抜けた体を支えきれずに、げほげほと酸素を求めてむせ返りながら、ボクはその場に座り込んでしまいました。
「これで満足かよ」
吐き出すように投げつけられた言葉は、顔を見なくても彼が怒っていることを悟るには十分でした。
もっとも、彼の顔を見ることが怖くて、自分の顔を上げることも叶わなかったのですが。
「ああ、確かにオレはお前の恋人だった。
けどよ、とりあえず今のお前にはそう思って欲しくねぇ。
そんときのこと、何も思い出せてねぇくせに、何分かったように聞いてやがる」
それだけ言って、犬飼くんは踵を返しました。
慌てて顔を上げると、あの大きな羽が存分に広げられていたのです。
彼を止めて謝らないと……けど、何て言えば?
「まぁいい。そんな調子で何も思い出せないなら、そのこともあと数日で忘れちまう。
そうなれば、オレもお前も、もう記憶のことで悩まずに済むんだ。
とりあえず、そのほうがお互い気楽だろ」
彼がそう言い捨てたときになって、ボクはようやく自分の失態に気がついたのです。
ボクと彼の間にある大切なものは、そんな絆の「名前」なんかじゃないこと。
記憶がなくなったことで辛い思いをしているのは、彼も同じこと。
ボクが焦るばかりに、そんな簡単なことを見落としていたこと。
「だから、オレの事なんてもう忘れてくれ」
「!
待っ…………!?」
呼び止める間もなく、犬飼くんはどこか遠くへ飛んでいってしまいました。
彼の姿が見えなくなって、ボクは血の気が一気に引いていったように感じました。
慌てて伸ばした手がだらしなく地面に落ちて、ボクはその手を見ながら、なんて無様なのだろうと、溢れそうになる涙を堪えながら思ったのです。
ああ、もしやり直せるならあんな馬鹿なこと言いやしなかったのに。
彼を一人にさせるようなことしなかったのに。
あのとき、あんなこと言いやしなかったのに。
「分かりました、そういうことならお受けするっす」
「ぐッ!?」
いつものフラッシュバックと共に、ボクはまた頭痛と眩暈に襲われました。
しかし、いつもの比じゃないくらい、今回はとんでもない激痛だったのです。
急速にフェードアウトしていく意識の中、そういえばここって人通りがあんまりないんだよなぁ、とどうでもいいことを思い出して。
誰か見つけてくれるのかな、なんて不安になって。
でも、彼を一人ぼっちにしてしまったのはボクなのだから、ここでひとり倒れてしまうのは天罰なんだろうな。
そう思いながら、ボクはとうとう意識を手放したのです。
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