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piece 4. あなたに続く道

酷く優しい風が、ボクの頬を掠めていくから。
ゆっくり、ゆっくり、まぶたを開いてみようと思ったのです。


あれ、ボクは何をしていたんだっけ。
確か犬飼くんを傷つけてしまって、それで何かを思い出しそうになって…。
ボクの意識は次第とはっきりしてきたのですが、いつも目覚めたときに感じるはずの気だるさはありませんでした。
そればかりか、そろそろ冬服の上にもう1つ上着が必要だと考え始めた時期になったはずなのに、ボクは何故か夏服を着て、屋上に一人座っていたのです。
膝の上には見慣れた弁当箱の包みがあって、その重さからまだそれに手をつけていないことを知って。
それだけを見て、ボクは思わず口元が緩んでしまうほど、嬉しくて嬉しくて仕方がなくなってしまいました。

そうだ、ボクはこうして犬飼くんを待っていたんだ。
彼はいつも遅れてここにやってきて、追いかけられて乱れた服を直しながら、申し訳なさそうな顔をして謝って。
でも、ボクは彼と一緒にいられることが嬉しいから、別に気にしてないって笑って言って。
それを聞いて、滅多に笑わない彼が優しく微笑んでくれると、ボクはたまらなく幸せになってしまうのです。
そんなことを思い返しているうちに、遠くから急いで階段を駆け上がる音がして、ガチャリと扉が開く音が聞こえました。




突然、ピリッとした痛みが右手に走り、そのせいで掴んでいた何かを落としてしまいました。
さっきまで屋上にいたはずなのに、ボクは何故かユニフォームを普段以上に泥だらけにさせて、校舎裏に一人佇んでいました。
右手を見ると、ボロボロになったテーピングの下から酷く荒れた掌が見えました。
手がこんなに荒れているということは、きっと決め球の練習をしていた時期なのでしょう。
息も切れ切れになっていたので、ボクは休憩がてら手を洗いに行こうと思い、その場を後にしました。
水飲み場までふらふら歩いていくと、ちょうど休憩中だったらしい犬飼くんと、その少し手前で鉢合わせました。
しかし、このときボクは彼になんて話しかければいいのか分からなくて、彼と目があった一瞬、言葉を詰まらせてしまったのです。
「お疲れさまっす」
必死に振り絞った言葉は捻りも何もない一言で、なんでこんなに簡単な言葉をかけるのに一瞬悩んだのかとモヤモヤして。
こんなとき、いつも次になんて言っていたんだっけ?
ほかのみんなと話すときなら、息をするように言葉が出るのに。
そんなことを考えていると、彼がふとこちらに歩み寄ってきて、何も言わずにボクの荒れた右手を掴んできました。
ビックリしてそっちを見ると、見覚えのある表情で、彼はまじまじとボクの掌を見つめていたのです。

それは、あの時屋上でボクの手を見つめていたその表情と、全く同じで。



ふと、ボクの目の前から彼が消えて、いつの間にかあの丘に犬飼くんと二人で立っていました。
初めて連れてきてもらった場所とその景色に興奮して、ボクは柵から体を乗り出してそれに見入っていて。
彼はそんなボクを柵に寄りかかりながら微笑ましそうに眺めていましたが、ふとその顔を強張らせたのです。
「…なぁ」
小さく消えそうな声で彼が呟いたのが聞こえて、そっちに振り返ると、彼はその褐色の肌からでも分かるくらい頬を赤くして、こちらを見つめていました。
そんな彼を見ているうちに、何だかボクも照れくさくなって、どんどん顔に熱が溜まっていくのが分かりました。

このときのボクは、次に彼の言う言葉をなんとなく知っていました。
そして、それを伝える勇気が持てなかったボクは、その言葉をずっと待ち望んでいたのです。
「オレ…お前のこと、好きだ」
小さな声は、それでもはっきりとボクに届いて。




くるくると移り変わる目の前の光景を見ながら、ボクは自分が見ているのは彼との思い出なのだとようやく理解しました。
一つの場面を不恰好に切り取ってばらばらに並べた映画を見ているようでしたが、それでもいつ何が起こったのか鮮明に思い出すことができたのです。

初めて二人で出かけた日のこと。

初めて彼と喧嘩した日のこと。

初めてキスした日のこと。

それから、それから…。

いくつもの思い出を見ながら、ボクはどうしようもなく泣きたくなりました。
ボクはこんなに彼のことを大切に思っていたのに、彼はあんなにボクのことを想ってくれていたのに、ボクはそれを全て忘れていたなんて…!
それが悔しくて、悲しくて、何より申し訳なかったのです。
しかし、記憶の中のボクは幸せそうに笑うばかりで、涙を流すことすらできませんでした。



ふと、また景色が変わりました。
ボクは犬飼くんに抱きしめられていて、一瞬すごく驚いたのですが、だんだん嬉しくてくすぐったい気持ちへ変わっていきました。
「今日はサンキューな。すげー嬉しい」
大好きな、少し低くて優しい声。
とても落ち着いて安心できるはずなのに、ボクは妙な胸騒ぎがして仕方なかったのです。
彼の体が離れたとき、繋ぎとめようと手を伸ばそうとしたのに、記憶の中のボクはニコニコとそれを見送ることしかできませんでした。
少しの間は手を繋いで歩いたけれども、彼は何かを思い出して、その手すら振り解いてしまったのです。
少しずつ彼がボクから離れていくのを、ボクは焦りながら目で追いかけていました。

ああ、止めなくちゃ。
そうしないと、彼は、ボクは。

「止まって」
そう言ったはずなのに、口からは何の音も出てきませんでした。
「止まれ」
相変わらずボクは何も言葉にできなくて、そうやく「それ」に気がついた記憶の中のボクが、彼の後を追い始めて。
そして、彼のその手に、手を伸ばして。


「止まれ!!」





バッと体を起こすと、いつもの気だるさが体中を襲いました。
やっと意識を取り戻せたことに安心し、くらくらする頭を押さえながらゆっくりと顔をあげると、何故か妹がタオルを掴んだまま驚いてボクを見ていたのです。
彼女は慌てて立ち上がり、「お母さん!」と叫びながらパタパタと部屋を出て行きました。
慌てて周りを見てみると、そこは間違いなく自分の部屋だったのです。
ボクはあの丘に一人で倒れたはずなのに、一体どうして…?
うまく回らない頭で考えていると、廊下を慌しく移動する音が今度は近づいてきました。
「忠之介、もう大丈夫なの!?」
妹に呼ばれて来たお母さんが、部屋の扉を開けると同時に息を荒げて僕に尋ねました。
「ええ、まぁ、一応…」
「もう、家の前で倒れてるからビックリしたじゃない!
 具合が悪いのなら、ちゃんと学校から連絡しなさい!」
それを聞いて、ボクはさらに驚きましたが、今度はすぐにその理由の見当がついたのです。
そうだとするのなら、きっと。
「…本当にごめんなさい。
 まだ少しクラクラするっすから、もうちょっと寝ててもいいっすか?」
「ええ、ゆっくりお休みなさい」
弱々しく微笑んで部屋を後にした彼女を申し訳なく思いつつ見送ってから、もう一度ゆっくり辺りを見回しました。
ボクの考えが、本当に合っているなら。

「やっぱり」

ここから見ると棚の陰になるところに、隠し切れない大きな羽を見つけて、やっぱり犬飼くんが運んでくれたのだと納得したのです。
きっとボクが起きていることに気付いているはずなのですが、彼は振り向こうとしませんでした。
それでも、ボクは彼に伝えたいことがたくさんあったのです。
物陰に隠れた彼を見据えながら、ボクは構わず口を開きました。

「ありがとうございます」
ボクをここまで運んでくれたこと。

「ごめんなさい」
心無い一言で、あなたを傷つけてしまったこと。

「…ごめんなさい」
あんなに大切だったのに、忘れてしまっていたこと。

「ごめん、なさい」
あんなに想ってくれたことを、忘れてしまっていたこと。

「……ごめ、…なさ……」
それなのに、あなたのことをまだ愛しいと思ってしまうこと。

ああ、どれだけ謝っても足りないじゃないか。


しゃくりあげた声を隠しきれず、涙がボロボロと止まらなくなったときには、ボクは俯いてしまっていて。
彼がこちらを向いたことにも、側に近づいてきていたことにも、抱きしめられるそのときまで気がつかなかったのです。
「とりあえず、謝るのはオレの方だ」
諭すような、優しい声。
きゅう、と回された腕に力が込められるのを感じて、溢れて止まらなかった涙がゆっくりと引いていきました。

「傷つけて悪かった」

「突き放して悪かった」

「なのに、お前に甘えて悪かった」

「忘れないといけねーのに、忘れらんねーんだ。
 お前と一緒にいた日のこととか、お前のこと想ってる感情とか。
 お前には忘れて欲しいって言っといて、どっかで元に戻れるんじゃねーかってありもしないこと期待して」

彼の声はだんだんと震えていったけど、ここからじゃその顔を窺うことができなくて。
そんな彼が愛おしくて仕方がなくて、抱きしめようと体に挟まれた腕をその背にゆっくり伸ばしかけましたが、途中でぴたりとそれを止めてしまいました。
そうだった、彼には立派な羽があったんだ。
ああ、それがなければ、彼の背を思いっきり掻き抱いたはずなのに…!


「…オレ、まだどうしようもないくらい、お前のこと好きだ」
絞り出すように囁いた言葉の主に、ボクはとうとう何もしてあげることができなかったのです。






どれくらいそうしていたでしょうか。
ボクの体から彼の熱が離れて、彼は改めてボクに向き直りました。
「…あいつとの約束は、思い出せてないよな」
ポツリと呟かれたその言葉に、ボクは一瞬体を強張らせました。
きっとあの記憶としっかり向き合っていれば思い出せたのでしょうが、あの時ボク自身がそれを拒んでしまったのです。
そのことが申し訳なくて、せっかく持ち上げた顔がまた俯いていきました。
「はいっす…」
「とりあえず、それでいい。
 思い出して欲しくねえのは本心だ」
驚いて彼の顔を見ると、辛そうに顔を歪めていて。
それは嘘をついている表情ともどこか違っていて、本当にそれが本心かどうかボクにはよく分かりませんでした。
「こうなったのは、オレが選んでやったことだ。
 だから、とりあえず、お前にこれ以上辛い目に遭って欲しくねえ」
「でも…っ」

紡ごうとした言葉は、彼の唇に優しく塞ぎ止められてしまって。

「もう、いいから…」
彼はボクに、自分自身に、そう言い聞かせるように弱々しく呟くのでした。

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